織田信長と村木砦

織田信長出世の礎となった村木砦の戦い

国道とJR武豊線に挟まれた取手と呼ばれる地区に、八剱神社を含む馬蹄形の形をした村木砦跡がある。当時はここまで入り江になっていて、岬のように海に突き出していた。
境内の端に「史跡村木砦址」の碑が建っている。すぐ隣をJR武豊線が走って行く。
この村木砦の戦いとはどんなものであったか、少し整理してみると---
今川義元が尾張に向けて侵攻
岡崎城を占領し松平の領地を支配した義元は、織田が守っていた安祥城をも攻略した。城主織田信広を生け捕り、熱田に人質となっていた竹千代と交換した。
このような時尾張の織田信秀が病死した、跡継ぎが織田信長である。信秀が死ぬと鳴海の城主山口左馬助は、織田に背いて今川に就く。そのうえ山口の誘導により大高城、沓掛城も今川軍が占領した。
さらに天文21年刈谷の東、重原の城を占領した。猿渡川は重原まで入り江となっていた。この重原の港を根拠地として、資材、兵員を村木岬に陸揚げして、天文22年に築かれたのが村木砦であった。
歴史の流れを変えた戦い

村木砦を敵方の今川軍に築かれ、存亡の危機に直面した水野信元は、那古野(ナゴヤ)に使いを出し、織田信長に救援を求めた。信長は、那古野の守りを舅の斎藤道三に頼み、緒川へ出兵した。
大高、鳴海、沓掛が今川軍の支配下にあったため、信長は船で知多半島西岸に上陸し、村木砦を攻撃した。この時、信長は鉄砲を持参し、玉を家来につめさせ、取り替え取替えして撃ったという。時は天文23年(1554年)1月24日である。
両軍激戦の後、午後4時ころ今川方が降参して戦いは終った。もしこの時、信長が出陣していなかったら、水野は今川に屈して、知多半島全域は今川の支配下に入り、そして今川が大攻勢に出れば、一族の中でも敵対していた信長は滅びていたかもしれない。
このように考えると、信長は自分の弱点を隠すため、必死の賭けに出たのではないか!! そして、6年後の桶狭間の戦いに勝利し弟信行を謀殺して尾張一国を平定した。
したがって村木砦の戦いの勝利は、まさに信長の出世を確かなものにする礎を築いたと言える。
織田信長ゆかりの地

村木砦古戦場跡
織田信長はこの村木砦の戦いに勝利したことに
より、後の「桶狭間の戦い」に勝利する契機とも
なった。
また、信長が初めて戦いに鉄砲を使ったのが、
村木砦の戦いといわれている。その威力を実感し
た信長は「長篠の戦い」において「三段撃ち戦
法」で勝利している。

村木神社
村木砦の戦いの時、織田信長の本陣が置かれ
た。
後狭間
村木砦の戦いの時、織田孫三郎信光の
陣屋が置かれたところ。
信光は織田信長の叔父(信長の父信秀
の弟)にあたる。
信長公記には、「西搦手の口は、織田
孫三郎殿攻め口」とある。

飯喰場(イクイバ)
戦いに勝利した織田・水野軍が、祝宴を催した
ところ。
信長は兵士たちのひとりひとりの手をとって、
「ご苦労、ご苦労」と涙を流した、
と信長公記に書かれている。
首塚
戦いでなくなった人を葬ったと思われるところ。